白土と赤土を練り合わせて作る紋胎碗。いわゆる練上手は唐代から盛んに行われた手法。練ガラスと似たところがあるが、紋胎陶と練ガラスの間に関係があるかどうかは興味深い問題。欧米ではマーブルウェアといわれ特別好まれる。
古中国裂箱に入り「観山蔵」の署名。「観山蔵品」の貼札。仕覆に包まれ、大切に伝来されたことがわかる。
箱上には金彩で「木目天目」の文字(おそらく観山自書き)。釉溜まりも魅力ある景色としている。
晩唐の特色の蛇の目高台(中国では玉壁底の名称)。紋胎陶は倣品が多く、これ程真贋が明確な作品は希少。
※下村観山 1873年(明治6年−1930年(昭和5年)
紀州徳川家に代々使える能楽師の家に生まれる。幼い頃から狩野芳崖や橋本雅邦に師事。
明治22年東京美術学校に第1期生として入学。同期の横山大観、1年後輩の菱田春草らと共に岡倉天心の薫陶を受ける。
大正2年原三渓の招きにより横浜本牧に終の棲家の居を構え影響を受け、大変な古美術蒐集家でもあった。
死後、某横浜古美術商が一括購入後、散逸。 |