耳杯形内側面・耳部には牡丹文を、外側面には鳳凰牡丹唐草文を。
高台内底面には牡丹文を刻花し、耳部上面と外側面は細微な魚子文で埋め、文様を鍍金とする。
隋唐以降、禁酒が解かれると酒造業が迅速に拡大し、皇室・貴族・官僚・士大夫から平民に至るまで、ほとんどが飲酒の習慣を持った。唐代の審美観を良く表している酒器であり、飲酒の用具を精巧で美しいものにしようと追及する点は唐人が飲酒の習俗を重視していたことを側面から反映している。唐代では、民衆が酒を飲むことを政治がうまくゆき民衆が楽しむものだとみなしていたので、酒造業が急速に拡大した。
長安は酒造りのセンターであり、また全国で唯一、醸造に税金のかからぬ都市でもあったので多くの人がこの地で店を開き、工場を作った。そのため長安では酒造技術も酒の質も向上した。
隋唐出土文物の中でも酒器は最も多く、造形が美しくて工芸も細やかといえよう。このことは隋唐における酒器の製作が実用と美観とを一体のものとする審美観を反映している。
耳杯とは戦国時代〜漢時代にかけて酒の盃やおかずを盛る小皿として用いられた食器。上から見ると顔の両側に耳が付いているような形であることからこの名がある。耳杯は戦国時代〜漢時代を経て、南北朝時代に至るまで広く用いられた。実用の耳杯の多くは漆器であったが、玉・銅で造られることもあった。
唐代に金銀重複の文化がなぜ広まったのか。これまで挙げられてきた理由では、金銀器による食事が長生のために良く、丹薬作りに金銀が必要とされたなどがあった。また、シルクロードを通じて伝えられる西の金銀文化の影響、金銀が示す華やかさや永続性に中国側が目覚めたことも考えられよう。
参照 : DK-171 、 DK-196 、WS-131
参照本 : 遣唐使と唐の美術 |