呉越の造り出す剣の技術は中原より遥かに優れ、後に天下を統一した秦の始皇帝は呉越の名剣を手に入れたく二百七十年後に名剣コレクター呉王こうりょ(前496没)の三千剣を求めて墓を暴いたことは知られる。鞘は糸が巻かれた上を黒漆で固め、朱漆で神獣雲気文を描いている。刃先は今なお鋭利な円茎剣。
春秋晩期から戦国にかけては青銅剣の最盛期であったが、漢代に鉄剣が流行するや次第に姿を消していった。文献には秦人は戦いで鉄製武器を大量に使用したとあるが、始皇兵馬俑坑から出土するのは全て青銅器であって、これはおそらく青銅の武器が精巧に作られ美しく輝いていたため、儀杖や待衛の使用に適していたからであろう。その頃青銅は美金、鉄は悪金と呼ばれていた。
参照 : DK-329 |